備後節織について


備後節織とは、伝統的な織物・備後絣から派生した新しい生地のブランドです。

久留米絣、伊予絣と並ぶ、日本三大絣のひとつである備後絣は

広島県備後エリアから生まれました。

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【備後節織って?】

聞き慣れない名前だと思います。

備後節織とは、伝統的な織物・備後絣から派生した新しい生地のブランドです。

【無名の生地に魅せられて】

久留米絣、伊予絣と並ぶ、日本三大絣のひとつである備後絣。

広島県福山市新市町一帯で江戸時代から生産され、かつては多くの機場があり量産されていましたが、

現在染めからの伝統製法を守り、機械織りを続けているメーカーは二社のみ。

4、5年前に織元を訪ねた時、古くから織り続けられていながら、名前もないこの生地たちの手触りに、

魅了されたのがはじまりです。

【愛しい木綿の風合い】

もともと備後絣は、他地域の絣に比べてサラリとした感触ですが、「備後節織」は、ポコポコとしたネップ(節)があるのが

大きな特徴。織り糸にも膨らみのあるネップが入っていて、機械織りなのに手織りのような、温かみある素朴な風合いが持ち味です。

その風合いを生みだすのが、昭和三十年代製の旧式のシャトル織機。

シャトル織機は、上下に開いた経糸の間に、緯糸を内蔵したシャトルを使いシャトル左右に動かして糸を打ち込み、

ゆっくりと織る仕組み。緯糸にかかる張力があまりかからないため、少し空気を含んだような、木綿ならではの柔らかい風合いを

生かして織ることができるのです。

【夏は涼しく冬は暖かい】

木綿は吸湿性が高く通気性にも優れているため、汗ばむ夏には涼しく、冬はふんわりと空気を含んで暖かく着こなすことができます。

ジャブジャブ水で洗えるので普段使いの洋服や小物などにも使い勝手がいい。

伝統的な絣生地と同じく肌触りはサラリとしていて、使い込むほどに、よりソフトな風合いに変化していきます。

【ゆっくり丁寧に、織る】

そこには、職人の手仕事で糸を染め、天候に細心の注意を払いながら天日干し。

織機に立ち合い、糸を入れたり調整したり…といった努力があるのです。

日々の細やかな手仕事が繰り返されてこそ、伝え続けられてきた素朴で、温かみのある織物。それが備後節織なのです。

旧式のシャトル織機を使い、手間をかけて織り上げるため量産ができないこの生地を、皆さんにぜひご紹介したい。

そんな想いから生まれたプロジェクトです。

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♪肩を並べたあの学舎(まなびや)の

忘れられよか 筒井筒(つついづつ)

藍の香が 藍の香がなつかしや

~「備後絣音頭」~

【生まれは広島県福山市】

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備後節織のルーツは備後絣。

九州の久留米絣、愛媛県松山市の伊予絣とともに日本三大絣と呼ばれ、

戦後は全国シェアの7割を占める全国一の生産量を誇っていました。

江戸時代に広島県福山市で生まれ、新市~福山市芦田町周辺で織り続けられてきた

備後絣のふるさとを歩き、今日までの歴史を追ってみました。

【絣の美しさに魅了され】

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この地で綿織物が盛んになったのには、江戸時代初期に、備後福山藩の初代藩主・水野勝成が

産業振興のために綿花の栽培を奨励したことが背景にあります。誕生は、1853(嘉永6)年のこと。

広島県福山市芦田町に住んでいた富田(とみた)久三郎(きゅうざぶろう)が、「きし縞(じま)」という

浅黄(あさぎ)絣(がすり)の絹織物を見て絣の美しさに魅了され、研究を開始。

緯糸の一部を竹の皮でくくり、それを染めた「井桁(いげた)模様」を考案したのです。

その後も紡糸の再整や、絣の染色方法の研究など苦心を重ねた結果、より巧緻な模様を織り出すことに成功し、

世間から大変な賞讃を受けました。

【戦後は全国一のシェアに】

明治の初めには量産を始めて全国に売り出したため、次第に知名度が高まります。大正末期から昭和初期には機械化が進み、

1932(昭和7)年には約132万反を生産。第二次世界大戦の戦時中は生産がストップしますが、戦後には生産を再開。

当時この一帯では「織物を一織りするごとに多くの利益を生む」ことから「ガチャ万」と言われるほどに復活。

ピークの1960(昭和35)年頃には、国内生産の約7割(約330万反)を占めるようになりました。



『備後絣といっても、知らない人があるだろうが、これは世に言う鄙(ヒナ)にまれなる乙女の着る紺絣だ。

別嬪の草刈娘、別嬪の早乙女などは無論のこと、狐なんかも、美人に化けるときには、

物識りの狐なら必ず備後絣を着ているということだ。』

井伏鱒二氏の小説『木靴の山』より



しかし30年代後半より和服離れや化学繊維の台頭により需要が激減。約1mの広幅地の生産に踏み切るなど、業界全体の

大きな変化もありました。

【新たな需要を求めて】

現在は「森田織物」「橘髙兄弟商会」の織元2社だけが、伝統の製法を受け継ぎ生産を続けています。

生地の用途も着物や作業着ばかりでなく、洋服や小物、雑貨などへと可能性が広がり、時代の移り変わりや客先のニーズに合わせた

素材、色、模様のバリエーションが増えています。

伝統の技が息づいた「いいもの」を求める人々によって、大切に、愛着を持って使われ続けているのです。

こうした流れのなかから、「備後節織」は生まれました。


◆参考文献:『「備後絣」広島県文化百選3 民芸・民具編』中国新聞社1984年)

◆備後絣協同組合ホームページ

 

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【織元はたったの2社】

備後絣の織元は、現在「森田織物」「橘髙兄弟商会」の2社しかありません。

幸運なことに、両社とも若き後継ぎが家業とともに伝統の製法を受け継がれています。そして互いに切磋琢磨して、

それぞれ独自のカラーを打ち出しつつ生産を続けています。

【手間のかかる工程を経て】

備後節織の工程は、まず煮沸した生糸を染めていくところからはじまります。藍や柿渋、墨汁などの染料で染色し、

天日に干して色を馴染ませるため、天候に大いに左右されます。天気を待つこともしばしばあります。

糸を織るのは、昭和30年代に製造された旧式のシャトル織機で。ゆっくりゆっくり織ることで、空気を孕んだ、ふんわり柔らかい

風合いが表れます。けれども織るスピードが遅いため、機械1台で、1日に1反(約30m)しか織れません。その織機で製作する

生地のうち備後節織は、さらにほんの一部。このように備後節織は、手仕事が担う工程が多くて生産量が限られる、

とても貴重な生地なのです。私たちは、この稀少な生地をなんとか日本中の、いや世界中の皆さんに紹介したいと思っています。

【織元紹介】

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森田織物

~天然のよさを生かし、自分でつくる~


昭和38年に新市で創業した森田織物。生まれた時から機の音を聴いて育ったという2代目代表の和幸さんは、かつては婦人服の製造販売業を営んでいましたが、33歳の時に父の病をきっかけに備後絣の仕事を継承しました。昭和40年頃には250社あった織元は、30年間で5社に減っていました。悩んだものの、「この備後絣を残していかなければ」と感じ、父の想いを受け継いだといいます。

「手間のかかる作業を続けることこそ生き残る道」と、糸をすべて天然染料で染めるのが森田織物のこだわり。和幸さんの代から藍・柿渋に加え墨染めも始めました。90度に熱した染料をかき混ぜ、天気を予測して糊付け、天日干しし、何度も水洗いして不純物を取り除くなど、重労働をこなしながら手間と日数をかけて染め上げます。父から受け継いだ技や染料の配合を守り続け、ムラなく退色しない、深みのある色に染め上げています。

また、備後節織の独特の柔らかい風合いを出すため、旧式のシャトル織機を使い続けています。ループのある緯糸を経糸に入れる割合によって生地に表れる、ラフな手触りも面白いのです。和幸さんが、「生地を織りながら考えている」という新柄は、モダンで粋なものが多く、最近では綿麻素材のものも織っているそうです。「特別なことはしてないんよ。毎日同じことを続けるだけ」。その実直な姿勢で日々手間のかかる作業をこなします。洗いざらしのジーンズにも通じるような、ナチュラルで味わいある生地。量産ができないため数量は限られますが、その生地の良さは、手に触れただけで確実に伝わってくるのです。

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橘高兄弟商会

~風合いを大切に、着たくなる生地を~


もう1軒の織元、橘高兄弟商会は、大正9年に橘高糸平さんが創業。芦田川水系の清らかな地下水が湧き出る土地で、糸の染めから洗い、織り、製品までを一貫生産しています。糸は、撚糸会社に別注して仕入れ、その糸を輪状の「枷」にして時間をかけて染め上げます。天然染料の柿渋やアカネ、ザクロ、化学染料など多種類を使い、色のバリエーションが豊富なのが橘高兄弟商会の強み。それを地下水で何度も洗い、昭和50年代のシャトル織機で織り上げます。

もともとは農作業着用に小幅の生地を生産していましたが、昭和50年代から洋装化の時代に合わせて約1mの広幅に全面移行。以来「小ロット多品種」をモットーに、客先の要望に細やかに応じています。「実用性の高い生地や製品を提供していきたい」と、4代目代表の昌子さんや息子の展(のぶ)広(ひろ)さんが、自ら使いながら着心地や風合いの変化を試し、製品化につなげるそうです。

また、新色や新柄の考案にも積極的に取り組んでいます。現在、後継者となるべく東京から帰福した展広さんが、生産現場の管理から経営までを手助けしています。「これまでの絣のイメージを払しょくし、今までになかった若さあふれる生地、面白いデザインのものを織り上げたいですね。」と展広さん。

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【絣のある風景】

務めていた呉服問屋の倒産を期に、父は独立し会社を興しました。平成2年8月のことです。

独立する際に、前の会社の仕入先でもあった橘高さんのおじいさんの元にしばらく通って商売の心得を説かれたと聞いています。

商材も最初は橘高さんの生地のみで、それを行商という形で全国の小売店やデザイナーさんに一反一反、手売りしていました。

当時、自宅の一室を事務所代わりに使っていたので、備後絣は常に私の身近なところにありました。父に内緒で部屋に入り、

天井近くまで積みあがった反物をひとつひとつ広げて、眺めていたことを覚えています。

【父の意思を継いで】

高校卒業以来ずっと県外に出て働いていた私は、20代半ば頃から「実家の父の仕事は誰が継ぐんだろう?」という疑問が

ありました。日本の伝統を扱う仕事に多少興味はあったし、父が一代で築き上げたものをなくすのはあまりに寂しいという思いから、

後を継ぎたいと父に切り出したのが26歳の時。

その頃には備後絣以外の伝統工芸生地や古布も取り扱うようになっており、私も父の後に付き全国を行商しながらまわりました。

【備後節織の伝え手として】

自分もやっと独り立ちし、自分や会社の進む道を考え初めていた矢先、父が病床に伏せ、まもなく逝去。

最も身近にあった備後絣が衰退して今では織元が2社だけになってしまったことへの危機感と共に、父の代わりに織元へ感謝の気持ちを発注に変えて、しっかり還元したいという思いから備後絣をリブランディングしようと決意したのが2013年の冬のことでした。

そこから半年、たくさんの人に手を差し伸べて頂き、備後絣に次ぐ新しいブランド「備後節織」を立ち上げることが出来ました。

勝手な個人の思いから始まったプロジェクトではありますが、橘高さん、森田さん共にご快諾頂き、温かく見守られながら

なんとかスタートラインに立ちました。


「素晴らしい手仕事を後世に残したい。」


月並みな言葉にはなってしまいますが、これが父から続く弊社の理念です。

この理念を元に、これから備後節織をご紹介して参りますので何卒よろしくお願い申し上げます。



有限会社 番匠 備後節織企画室 室長 小林光次郎

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